切子

薩摩切子の職人


薩摩切子は江戸切子の細工技術を元に発展したものですが、それは職人の努力の結果であったのです。
薩摩切子は、長崎等から伝来した外国のガラス製造書物を元に、江戸切子の細工職人を招くなどして、第10代薩摩藩主島津斉興によって始められました。
その技術を元に11代藩主島津斉彬が集成館事業の一環としましたが、当時100人以上がそこで働いてたとされています。
出来上がった薩摩切子は大変に先進的な細工物で斉彬も愛し、大名への贈り物に用いられたり篤姫の嫁入りの品ともなりました。

そのころの切子職人の生活について記した記事がありましたので、その主旨を筆者の理解の下に記してみました。
切子は切子細工だけでは出来ません。素材となるグラスが必要なのです。そのグラスは吹きガラスによって作られます。宙吹きガラスで作られることもあり、型吹きで作られることもあります。
切子細工にしても、吹きガラスにしても、半端な技術では出来ません。専門に長年修行した職人の技が必要なのです。
職人と言うのは、厳しい修行を長年続けなければなりません。そういう世界なのです。
その厳しさは江戸切子の職人においても同じでした。師弟関係がとてもはっきりしています。
修行中の弟子は"小僧"と呼ばれながら厳しく指導されました。
でも、その厳しさの中に、小僧は親方の愛情を感じ取っていたに違いありません。ですからこそ、厳しさに耐えられ、一心に技術向上に努めることが出来たのです。
師弟関係は、はっきりしているとともに、どこか親子の関係に似ているのだそうです。子弟の愛は親子の愛にも似ていたのでしょうか。
切子細工の修行を積んだ愛弟子が独立するとき、親方はその弟子のために工房付きの家をも買ってやったそうです。そのような記録があります。
師弟関係が強かったと言うことは、ただ心の結びつきが強かったと言うことだけではありません。
武士の戦場での名乗りのごとく、どこの何々という親方に教えを受けた何の何々でありますと、その位置づけを明確にしていました。
現代の職人の多くは明治時代に海外からやってきたエマニエルホープトマンによる教えを受けた職人の系統に属します。
それでも今もなお、江戸時代に江戸切子を作り出した加賀屋久兵衛の系統の職人もいます。

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