江戸切子の存続
1834年加賀屋久兵衛が金剛砂を用いてガラスの表面に彫刻で模様を施したのが江戸切子の始まりと言われ、明治14年にはイギリスからカットグラス技師を招き、近代的な技法が確立されて以後発展していきました。
江戸切子は江戸の切子細工の職人や、薩摩切子廃絶に伴う技術の移転、そして外国のカットグラス技術等が融合していったのと考えられています。
江戸切子の細工技法は薩摩に渡り色被せなど新しい技法に発展しましたが、薩摩切子は途絶えてしまいました。しかしその薩摩切子の技法は逆に江戸切子に吸収されています。特に透明グラスに着色硝子を被せた被せガラスの技法が大きなところです。
しかし江戸切子においても、太平洋戦争中は多くの細工職人も出征し、残った細工職人たちは転業や疎開をやむなくされました。
戦後、主な生産地であった江東一体は灰燼に帰し、業界は壊滅的打撃を受けていました。
しかしその荒廃の中から各メーカーや問屋に加え、新たに旧軍向け光学レンズからグラスなどのガラス食器に参入したり、技術転用などによって、後に世界的なクリスタルグラスブランドへと発展した保谷硝子などのグラス生産に切子職人たちが関わり復興していきました。
どこの業界も浮き沈みがありますが、江戸切子の業界も昭和50年代に入りますと、後継者の不足と高齢化の課題を抱えるなど複合的要因から廃業も多くなってきました。
その様な中、 現在、多くの課題に対して、様々な試みをとりながら和の特色と個性を反映した日本のガラス工芸として生き残りを図っています。
また、切子作家・カットグラス作家という活動も見られます。職人やその師弟が独立し、個人として日本伝統工芸展を始めとする作品展への出品や教室開催等の活動が盛んに行われています。
江戸切子は薩摩切子と違い、現在に至るまで継続しています。人から人へと技術が伝承されているのです。
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