薩摩切子物語(色被せ)

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薩摩切子

薩摩切子は、藩主島津斉彬や先代の藩主らの努力によって、作り上げられた切子細工です。 長崎等から伝来した外国のガラス製造書物を元に、江戸の細工職人を招くなどして、第10代薩摩藩主島津斉興によって始められ、11代藩主島津斉彬が集成館事業の一環としました。安政5年(1858年)、オランダの医師ポンペ・フォン・メールデルフォールトが鹿児島を訪れてガラス工場を見学しましたが、100人以上がそこで働いていたと記しています。
薩摩切子は大変に先進的な品で、大名への贈り物に用いられたり篤姫の嫁入りの品ともなりましたが、斉彬の死後、集成館事業の縮小や薩英戦争時にイギリス艦艇による集成館砲撃で被害を受け、また幕末維新から西南戦争へ至る動乱もあって、その技術は明治初頭で途絶えています。 その職人や技術は、江戸や大阪へと渡っています。
その当時の江戸切子と薩摩切子との違いを比較してみますと、

江戸切子は無色透明な透きガラスを使っているのに対し、薩摩切子は色被せという着色層を持っており、
薩摩切子は切子細工が江戸切子よりも細かく、
薩摩切子は着色層が厚く、ホイールを用いた大胆な細工を行っています。

薩摩切子は江戸の細工職人を招いたり、外国のグラスの書物を調査したりして開発されましたが、ヨーロッパのグラスをおおいに参考にしたようです。

色被せの技法はボヘミアや乾隆ガラスから学んだものと考えられています。

現存する当時の薩摩切子には、日本的な繊細さが見られます。

近年の研究によって、無色の薩摩切子(透きグラス)という区分が整理され、新たな品も発見されています。
色被せの薩摩切子の特徴として、特にその色の層の厚さがあり、これに大胆な切子を施す事によって切子面に色のグラデーションが生まれます。これが色被せ薩摩の特徴で「ぼかし」と呼ばれる技法です。

このような薩摩独特の技術が、職人の移動によって江戸切子にも影響を及ぼすようになります。

参考としてのことですが、大阪府に存在した硝子食器問屋カメイガラスが、大阪の加工職人らとともに、薩摩切子の復刻商品化を1980年代に試み、生産・販売したことがあります。しかし同社は90年代半ばに倒産し廃業しています。
現在は、カメイガラスの倒産時の在庫や流通品、また販売・制作に関わった問屋・下請けの職人が、復刻に関わった経歴を踏まえた、商品販売や作家活動・教室を行っています。
ただし、鹿児島での復刻品に比べ、薩摩切子の最も特徴である被せガラス素材の色ガラス層の厚さとそれに伴うボカシは薄くなっています。
よく言われますのは、薩摩切子のグラスで飲む焼酎は最高に美味しいという言葉です。篤姫も持ってきたグラスでこっそり召し上がられていたかもしれないなどと勝手に想像しています。


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