薩摩切子物語(違い)

切子

 

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薩摩切子

薩摩切子は、薩摩藩主島津斉彬が集成館事業の一環として発展してきたものです。
しかし薩英戦争の結果、薩摩切子のあった集成館は壊れてしまい存続することは出来なくなってしまいました。
薩英戦争における集成館破壊は次のようです。
夜明け前、イギリス艦隊は、五代友厚や寺島宗則らが乗船する薩摩藩の汽船3隻を脇元浦においてだほします。これを宣戦布告と受け取った薩摩藩は、正午に湾内各所に設置した陸上砲台(台場)の80門を用いて先制攻撃を開始しました。
イギリス艦隊は、蒸気船を失った薩摩藩が戦意喪失すると考えて油断していたため応戦が遅れましたが、14時、100門の砲を使用して陸上砲台(沿岸防備砲・台場)に対し艦砲射撃で反撃しました。キューパー中将はだほした3隻を保持したまま戦闘することは不利と判断し、貴重品を持ち出してから3隻を焼却しました。
イギリス艦隊は台場だけでなく鹿児島城や城下町に対しても砲撃・ロケット弾攻撃を加え、城下で大規模な火災が発生しました。陸上砲台や近代工場を備えた藩営集成館も破壊されました。
このようにして藩主島津斉彬が築いた集成館は破壊され薩摩切子も生産できなくなったのです。

そのため薩摩の細工職人たちは、東京や大阪へ行って、その技術を伝えています。

当時の薩摩切子は途絶えてしまいましたので、現存するものは大変に少なく貴重で、骨董として高価で取引されています。
近年、薩摩の細工グラスなどは復刻され、同じようなものを作ることが出来るようになりました。
現在薩摩切子として普通に販売されているグラスや灰皿は、この復刻によるものです。

藩主島津斉彬や先代の藩主らの努力によって、薩摩切子を作り上げたのですが、その当時の江戸切子との違いを比較してみます。

江戸切子は無色透明な透きガラスを使っていたのに対し、薩摩切子は色被せという着色層を持っていました。
また薩摩切子は細工が江戸切子よりも細かくなっています。
また薩摩切子はホイールを用いて細工しています。薩摩の着色層は厚みが厚く、大胆なカットによってぼかしのカットにすることが出来ます。
また薩摩の細工は細かく複雑な感じがします。

このような薩摩切子独特の技術が、職人の移動によって江戸切子に影響を及ぼすようになったわけです。


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