薩摩切子物語(途絶え)

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薩摩切子

薩摩切子は、江戸切子や世界のカットグラスなどを研究し、第10代薩摩藩主島津斉興によって始められ、11代藩主島津斉彬が集成館事業の一環として発展してきたものです。

しかし、斉彬が亡くなりますと、集成館事業は縮小されてきました。
そのうえ、薩英戦争が勃発し、イギリス艦艇による集成館砲撃で被害を受けてしまいました。
また幕末維新から西南戦争へ至る動乱もあったりして、薩摩の切子細工技術は明治初頭で途絶えてしまいました。
薩摩の細工職人たちは大阪や江戸に散らばりました。江戸切子は薩摩の技術を吸収しています。

薩摩切子の入っていた集成館が被害を受けたのは次のような事情によります。
横浜郊外の生麦村で薩摩藩の行列を乱したとしてイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士が殺傷しました。これに対しイギリスの艦隊が薩摩にやってきました。
イギリス艦隊は生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への賠償金2万5000ポンドを要求しましたが薩摩藩側は拒否。
薩摩藩は、陸上砲台(台場)の80門を用いて先制攻撃を開始。
イギリス艦隊は、陸上砲台に対し100門の艦砲射撃で反撃しました。
イギリス艦隊は台場だけでなく鹿児島城や城下町に対しても砲撃を加え、城下で大規模な火災が発生しました。
このとき、陸上砲台や薩摩切子の入っている近代工場を備えた集成館も破壊されたのです。

後に和解し、相互に交易するようになりますが、薩摩切子はこの被害などのために途絶えてしまいました。
薩摩切子の職人や技術は、東京の江戸切子や大阪へと渡っていき、色被せのガラス技法などを伝えています。

当時の薩摩切子は途絶えてしまいましたので、現存する当時の細工物のグラスなどは大変に少なく貴重で、骨董として高価で取引されています。
近年、薩摩切子は復刻され、同じようなグラスを作ることが出来るようになりました。
現在薩摩切子として普通に販売されているグラスなどは、この復刻によるものです。


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