薩摩切子物語(篤姫)

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薩摩切子

薩摩切子と言うのは、幕末から明治の始めにかけて、薩摩藩が集成館事業のひとつとして生産した切子、カットグラスのことです。
薩摩切子のことを薩摩ビードロとか、薩摩ガラスとも言われました。

薩摩切子は、江戸切子の細工職人を招いたりして第10代薩摩藩主島津斉興によって始められ、11代藩主島津斉彬が集成館事業の一環として発展させたのですが、安政5年(1858年)、オランダの医師ポンペ・フォン・メールデルフォールトが鹿児島を訪れてガラス工場を見学したとき、100人以上がそこで働いていたと記しています。
江戸から技術を導入したのですが、薩摩では改良を加えています。その中でも被せガラスという着色層を重ねてあることが最大の特徴です。そのようにして作られたグラスを大胆にカットしますとぼかしにすることができます。

大変に先進的な品で斉彬も薩摩の切子細工を愛し、大名への贈り物に用いられたり篤姫の嫁入りの品ともなりました。いろいろのものがあったと思われますが、やはりグラス形状のものが多かったのではないでしょうか。

篤姫といいますのは、天璋院 / 篤姫(てんしょういん / あつひめ)のことですが、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれましたが、島津本家の養女となります。
そうして、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となったのです。

実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉の領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫にあたります。

この、篤姫の嫁入り道具として、薩摩切子が使われていたのです。
篤姫は、薩摩切子のグラスを手にとって見ながら、故郷薩摩のことを思い出されていたのではないでしょうか。いや、そのグラスで焼酎召し上がっていらしたかも。


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