薩摩切子物語(誕生)

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薩摩切子

薩摩切子と言うのは、明治の始め頃、薩摩藩が力を入れて生産した切子細工、カットグラスのことです。
ガラスのことをビードロとも言っていましたので、薩摩切子のことを薩摩ビードロとも呼ばれました。薩摩独特の切子細工でしたので、薩摩ガラスと言う呼び名も使われました。

第10代の薩摩藩主である島津斉興は、薩摩に産業を興そうと考え、江戸から江戸切子の細工職人を呼び寄せたり、長崎等から伝来した外国のガラス製造書物を丹念に調べたり、実際のグラスを調べたりしてついに薩摩独特の切子を作り上げました。
今でも焼酎を飲むのなら、オンザロックで薩摩切子のグラスが良いと誰しも思われるのではないでしょうか、薩摩の切子細工は大胆かつ細やかで、ぼかしも入る細工です。グラスを眺めているだけでも嬉しくなり、グラスを手に取ればその感触はこころを和ませてくれます。そのような名品となったのです。

第11代藩主の島津斉彬になってさらに力を入、大きな産業となりました。島津斉彬は集成館事業の一つの柱的産業として位置づけていました。
集成館事業とは、島津斉彬によって起こされた日本最初の洋式産業群を総称している言葉です。島津斉彬は、藩主に就任するや、それまで長年温めていた集成館事業の計画に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心としてアジア初の近代洋式工場群の建設をはじめました。
特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開しました。この当時佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていましたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、社会インフラの整備など幅広い分野まで広がっている点が他藩の近代工業化と異なる所です。

このように、集成館事業の一環として、薩摩切子は発展していきました。


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